デジタルな時代だからこそ求められる。人と人との対話を産む「哲学対話」

「BIGLOBE Style」では、「SDGs」に関する社内外の様々な事例やトピックスもご紹介していきます。今回は、ライターの白鳥菜都さんが、「哲学対話」について執筆しています。

 --------------------------------

f:id:biglobe_o:20210511163817p:plain

新型コロナウイルス感染症が流行し始めて数カ月たった頃から、筆者のSNSのタイムラインには、あるワードが頻繁に現れるようになった。それは、「哲学対話」だ。聞いただけで難しそうと感じてしまうこのワードが、どうやら少しはやっているようだった。参加者や主催者の投稿を見ると、デジタル時代だからこそ問われる「自分で考える」ことや「自分の考えを話す」ことが大事なポイントのようだった。

時期を同じくして、親しい友人から「哲学カフェ」に行ってみないかと誘いを受けた。少し話を聞いてみると、喫茶店などを貸し切って行われる一般人による哲学対話のイベントを、「哲学カフェ」と呼ぶそうだ。筆者の周りでも、まさに哲学対話がはやり始めていた。

では、哲学対話とはいったい何なのだろうか。

 

哲学対話のルール
哲学対話とは、一言で表すと「哲学的な対話」のことである。「哲学的」なんて言われると、カント、プラトン、ソクラテス……と、哲学者の本を読まなければならないのかという若干の不安がよぎるのだが、そうではない。哲学の知識を身につける場所ではなく、あくまでも対話が中心となる場所なのだ。

複数人で輪になって座り、何かしらのテーマを決めた上で自由に思考し、対話する。そのテーマは例えば、「自由とは何なのか」「面白いとは何なのか」「大人と子どもの違いは何なのか」というように、かなり幅が広い。

これだけを聞くと、ただの雑談や一般的なワークショップと変わらないように聞こえる。しかし、哲学対話の場においては、対話におけるルールが明確に決められていることが特徴的だ。テーマや参加者、進行役によってルールの内容は変わることがあるが、各回ごとにルールを定めて実践される。
例えば、東京大学大学院総合文化研究科教授で「哲学対話」についての著作がある梶谷真司氏は、哲学対話のルールを以下のように定めている。

〈引用〉
①何を言ってもいい。
②人の言うことに対して否定的な態度をとらない。
③お互いに問いかけるようにする。
④発言せず ただ聞いているだけでもいい。
⑤知識ではなく 自分の経験にそくして話す。
⑥意見が変わってもいい。
⑦話がまとまらなくてもいい。
⑧分からなくなってもいい。
(出典:梶谷真司『考えるとはどういうことか 0歳から100歳までの哲学入門』p.47 幻冬舎新書)〈/引用〉

 

このルールは、必ずしも全ての哲学対話で用いられるとは限らないが、他の哲学対話においても、共通する部分が多いだろう。哲学対話においては、自由な発想や自由な意見が許容され、推奨される。正しい答えやベストアンサーがあるわけではなく、対話を通して思考力を育てることが目的とされている。このような環境は、意外と身の回りに少ないのではないだろうか。

また哲学対話では、学校で習うディベートや仕事における会議とは異なり、前提条件を持たず、「当たり前」とされることに疑問を持つことから対話が生まれていく。私たちは、情報化社会の中で、テレビやSNSにあふれる"誰か"の意見を頼りにすることが多くなっているのではないだろうか。哲学対話では自分で考え、それを自分の言葉で発することが求められる。”誰か”の意見を借りずに、”私”の意見を持って誰かに伝えるためのリハビリが、哲学対話なのかもしれない。


実際に参加してみると
ここまで調べてみると、なんとなく筆者でも参加できそうな気がしてきた。哲学にはまったく詳しくないが、2020年4月、はじめて哲学対話に参加してみた。

筆者が参加したのは、「Death Cafe」と呼ばれる死をテーマとした哲学対話だ。Twitter上で参加募集を見つけ、応募した。新型コロナウイルスの影響もあり、オンラインでの開催となったこのイベントには、10代から60代まで、職業も性別も異なる約10名が参加した。主催者の話では、オンライン開催になったことによって参加者や開催回数が増加し、さらに参加者の幅も広がったとのことであった。

本格的な対話に入る前に、主催者から対話におけるルールの説明が行われた。前述したルールに近い内容に加え、独自のルールも決められていた。例えば、「カウンセリングの場ではないため、『自死』の相談は行わない」「対話で聞いた他の参加者の経験談は他言しない」などだ。「死」というセンシティブなテーマを扱う対話でありながらも、具体的なルールが決められていたことで安心感を持って参加することができた。

身近な人や自身の「死」にまつわる問いから、「死んだらどうなるのか?」といった、誰も経験したことのない部分に関する問いも生まれた。「はじめまして」の人がほとんどの環境であったにも関わらず、普段の生活では体験できないような、深い対話ができたことには驚いた。参加者は皆、ルールに基づいて他者の話を聞きながらも、互いに積極的に質問し合っていた。

この「Death Cafe」を皮切りに他の哲学対話にも参加してみたが、どの回も幅広い参加者と対話をすることができ、自分では思いつかないようなアイデアがあふれていた。 日常では味わえない、発想力のトレーニングのようでもあった。


なぜ、いま哲学対話なのか

さて、ではなぜ今の時代に「哲学対話」が求められるのだろうか。

いくつかの理由がありそうだが、ここでは筆者が実際に参加して感じたことを書く。

1つ目は、哲学対話のルールだ。前述の通り、哲学対話においては自由な発想や意見が求められる。さらに、他者の発言を否定しないというルールや司会者の存在があることにより、心理的安全性の高い設計となっている。SNSでは、炎上を恐れて発言がしにくく、「いいね」やフォロワーの多い人の意見が「正しい意見」だと見えやすい。また、会社や学校、地域など、社会の中で利害関係や上下関係にとらわれずに安心して話せる場所は、思いの外少ない。安心して自由に他者と話し、それをしっかり聞いてもらうという体験自体が、求められているのではないだろうか。

2つ目に、やはり新型コロナウイルス感染症の流行の影響も考えられる。筆者自身も、自宅で独りになる時間が増え、誰かと話す機会を欲していた。そんな状況下での哲学対話イベントは、新たな人との出会いも与えてくれる絶好の機会であった。また、Zoom等のビデオ通話ツールの普及も相まって、物理的障壁が減少し参加のハードルが下がった。

今回、筆者は自身の趣味として哲学対話に参加したが、実は学校や会社でも、哲学対話は取り入れられつつある。学校では道徳などの授業の一環として、企業では研修などで哲学対話を取り入れることがあるのだという。私たちは時間に追われる日々の中で、結論や正解を求めた会話が優先しがちだ。しかしそんな中で、当たり前を疑い、「問い」を立てる訓練として、そして安心して話すことのできる場づくりの練習として、組織におけるニーズもより高まっていくのではないだろうか。

 

(文:白鳥菜都、編集:大沼芙実子)

 

<BIGLOBE社員の編集後記>

学校教育においては「アクティブ・ラーニング」「主体的・対話的で深い学び」が示されており、企業でも哲学対話が研修などでも取り入れられているとのこと。体験されたことがある方、興味を持った方も多いのではないのでしょうか。新型コロナウイルス感染拡大により、会って話す機会は減ったかもしれませんが、白鳥さんも書かれているように、デジタル時代だからこそ問われる「自分で考える」ことや「自分の考えを話す」ことを見直してみたいと思います。